窯元 松花堂
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窯元六姓
「古伊部 神伝録」という嘉永2年(1849年)に書かれた書物は、備前焼の起源、焼き膚、土、名工窯印、窯元株など5項目の問答を表したものですが、その中に「窯元六姓」の記述があります。
「焼物師家銘相続の事は、前にいふ神代一徳を始、人皇武門に至り、今寛永に移りても家銘変わることなし。竈(かま)株売買ならず、女子沢山にしても養子して別家ならず。男子にても誰の株と定まりし相続ならば、別家として是を継ぐ」とあり、そのあとに南、北、西の三窯の株の所有者名を連ね「右三竈へ組み合いとなる事、応年中より定む。絶家する時は、六姓の内より是を継、六姓をもって竈元本家といふなり」。 六姓とは木村、森、頓宮、寺見、大饗、金重である。
幕末に近い頃に書かれた神伝録をそのまま鵜呑みに出来ませんが、室町末から共同組織の大窯による生産が行われ、是を独占的に支配したのが六姓と思われます。
森家の家史
森家の先祖は、菅原道真から十九代の後胤、兵部亟範輝(鎌倉末期)が尾張国愛智郡前田村に居住し、地名をもって、前田姓を称しました。
範輝の子、前田左衛門尉重範は、備前の美濃郡野田保北之丸城に居住し、広大な葦原を開発、その新開地は、のちに鎌倉将軍護良親王より重範に下賜されました。その後も数々の軍功により所領を子孫にまで伝領されています。
前田喜左衛門能徳の子 伊右衛門良久は、「来邸」の姓を名乗ったが 良久の子喜左衛門重能が「森」姓を名乗り、以後十五代にわたり連綿相続し今日に至ります。
  家系図
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森一族の墓所
     
     
森家の墓 森家の墓 森家の墓 現在の森家周辺
森家の墓(台座に備前焼がつかわれています) 古い窯跡 森家墓所より南大窯跡を望む
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